ハンマー落下す


床に落とした玉子はパックの中で割れている。
「どうしよう」と彼女はレジの前でとまどってふりむいた。「どうしましょう」目があった背後の客からも同じ言葉がもれた。「店員さんにとりかえてもらったら」とショッピングカートに身体をあずけている老婦人に言われた彼女は、頬を紅潮させて黙って列を去った。スーパーでは季節ごとの野菜や魚介類とともに、季節ごとの音楽が有線から流れている。最近、キュウリやトマトは、とくに夏の歌ではなくなった。

彼女は冷蔵庫やエアコンや換気扇や、スイッチを切ったテレビジョンから音楽を聴いていた。そのことを他人にはかくしていた。かくす、というより話す相手がいなかった。彼女は、キュウリを片手に冷蔵庫に好きな曲をリクエストすることがあった。冷蔵庫は、ザ・ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」ばかりを回転していたから、ザ・キンクスの「ウォータールー・サンセット」を聴いてみたかった。冷蔵庫は、「ウォータールー・サンセット」のイントロしか知らなかった。スイッチを切ったテレビジョンは、一年中、黒い画面に雪を降らしていた。ときには画面からはみ出して、大仰なBGMをつけながら壁にまで吹雪いた。バスルームの換気扇は日和見主義で、エアコンの顔色をうかがいながらコーラスをつけていた。ラジオがとつぜんチャンネルにチューニングされたように、クリアな無線のボサノバが通風孔からただよった。

エアコンは意地悪だ。彼女の苦手な白人系ヒップホップを繰り返す。4階にある部屋の下の大通りからすいあげているようだ。喧騒は大きくなり、彼女はたまらなくなって文句を叫ぼうとベランダに出るところだった。想像する。大通りには、タクシーや消防車やコンクリートミキサー車が往来しているだけだ。横断歩道のむこうの暗闇に目をこらすと少年が立っている。少年は(こっちへおいで)と手をふる。と、そのとき、電話が鳴った。彼女の耳元でピアノが「ポン」と一音のハンマーを打った。

「どうぞどうぞ、こっちのほうが新鮮ですよ」やけに愛想のいい店員が割れた玉子をうけとり、彼女に別のパックを手渡した。スーパーでは季節ごとの野菜や魚介類とともに、季節ごとの音楽が有線から流れている。最近、キュウリやトマトは、とくに夏の歌ではなくなった。


© prose poetry by hiromi suzuki, 2015

書き下ろし散文詩 『ハンマー落下す』 / 鈴木博美