2015-01-01から1年間の記事一覧

長い不在

何度も来たような気がするガラス張りの事務所だった。アルバイト初日、私の机の上のドキュメント・ファイルには督促状が溜まっている。一ヶ月ならまだしも十年の未納もある。仕事はわかっていた。失効期日を確認しながら順番に切手を貼り郵便局に持っていく…

物語

ルツ(あるいは、ルク)が真夜中の編集部から電話をかけてくる。 私はすっかり仕事を忘れていた引け目から、「これから原稿をとりに行く」という彼らの強引な申し出を断れなかった。締切りはとっくに過ぎていたというのに、私はベッドでうつらうつらしていた…

晴れた日に雨の撮影はいけない

買ったばかりのファッション雑誌をながめていると、かなしくなってくる。ウールの冬コートをなびかせて石畳の通りを駆け抜けてゆくモデルは、眩しい空の青と強い夏の陽射しの中で汗をこらえているに違いない。熱さをこらえながらニット帽の下で頬をすぼめ、…

鮫洲大山線

製菓工場からトラックが出ていく。缶詰のカレーやボルシチ、冷凍された肉まんやあんまんが、十年前に開通した交差点を右折するコンテナの中でゆれている。思い出せないのは、十年前に整備された交差点にあったはずの木造家屋やドブ川跡のちいさな脇道だ。確…

情熱

ふくらはぎにあった虫刺されのあとの瘡蓋に気付いて、そっと剥がしてみる。親指と人差し指の間から、カサカサとした枯葉のような角質が葉脈に夕焼けを透かしたが、ハラリと落ちて床に見失った。どこかの部屋で、火災報知器が魚焼きグリルの煙にけたたましく…

午後3時のマヨネーズ

岩盤の山肌に脚立を這わせて、木を刈る老人がいる。木というよりは、羊歯だ。岩の隙間から沢が滲みだしているのだ。午後3時から日が暮れるまで。木の根にしつこく絡みつく葉を茎ごとむしっては投げ捨てている。山は小さくて低く、かつて石切り場であった名残…

ジャック・レモン

フィラメントは、ソーダガラスの球体の、80Wの白熱電球で発光していた。バルブを透かして世界を照らす。世界とは、欲望のない男の、25㎡のキッチン付アパートメントのことである。欲望のない男はベッドに腰掛けて、デリバリーのピザを食べている。キッチンで…

ハンマー落下す

床に落とした玉子はパックの中で割れている。 「どうしよう」と彼女はレジの前でとまどってふりむいた。「どうしましょう」目があった背後の客からも同じ言葉がもれた。「店員さんにとりかえてもらったら」とショッピングカートに身体をあずけている老婦人に…

エイリアン

火薬のにおいだ。 ベンチをもとめて駅前広場に出た。ベンチは重ねられ、広場に一本だけ佇むメタセコイアにチェーンで繋がれていた。そのまわりを、廃遊園地からの払い下げミニSLが、煙をはいてこどもたちを乗せて走っていた。先頭車両にまたがった運転士が「…