情熱


ふくらはぎにあった虫刺されのあとの瘡蓋に気付いて、そっと剥がしてみる。親指と人差し指の間から、カサカサとした枯葉のような角質が葉脈に夕焼けを透かしたが、ハラリと落ちて床に見失った。

どこかの部屋で、火災報知器が魚焼きグリルの煙にけたたましく誤作動していた。いつものことで、誰も慌てる様子はない。扉や窓を開ける者もいない。そうだ、彼が台車で廊下を走り廻りながら玄関の呼び鈴を鳴らす時以外、このマンションの住人に会うことはないのだ。しかし、彼は、ほとんどの住人を知っている。配送指定が夕方6時から8時の場合、毎日どこかの家庭に、遠いどこかからの、なんらかの意義を持った荷物を届けている。それが、お中元の蟹缶の詰め合わせであっても、料金代引きの書籍であっても、季節はずれの雷雨を伴っても、扉の内側で交わされる会話はほとんど決まった一瞬だ。ときどき、孤独死を恐れている独居老人が、箱を受け取ったそばから林檎をくれることはあった。林檎を一個もらっても、彼にはどうしようもなかった。ワゴンの運転席には果物ナイフを用意していない。

瘡蓋の下には情熱があった。吹き出物や、ちょっとした切り傷に血や膿が滲む度に情熱を意識した。玄関の呼び鈴を待ちながら、(しかし、このままでは私はダメになってしまう)と勝手に思い上がり、同時にしらけた悦楽の中で瘡蓋を剥がす。ソファやベッドや床には、皮膚から剥離した“垢”によって目に見えない砂漠がひろがっていく。台所に立って、細く細く切り刻んだごぼうをボウルの水にさらす。

換気扇から胡麻油が焼ける香ばしいにおいが漂っている。玄関の扉の向こうには、きんぴらごぼうの睦まじい小皿を前にした、穏やかであたたかな団欒があることだろう。彼は、きんぴらごぼうの平和に憧れていたから、季節はずれの雷雨の、稲光と汗まみれの雨粒を肩から振り払った。


© prose poetry by hiromi suzuki, 2015

書き下ろし散文詩 『情熱』 / 鈴木博美